ジュース屋さんは朝が早い
きったり、むいたり、しぼったり
大阪の城下町には、安土桃山時代から江戸時代にかけて12の堀川があり、その堀川は後に天下の台所と呼ばれるほど大阪の生活を支えました。そして堀川の町ならではの繁栄を見せたのが、「雑魚場の鮮魚市」「永代浜の千魚市」「長堀の材木市」です。いずれも堀川の水運が生んだ大規模市でした。
現在の長堀通りは江戸時代に開削された運河(長堀川)で、東横堀川から分流し、一直線に木津川へ流れていました。西横堀川(現在の四ツ橋の阪神高速の辺)より西は「西長堀川」と呼ばれ、昭和45年に埋立てられるまで、西長堀川には多くの橋が架かり、現在も交差点名には当時の橋名の名残があります。長堀川ができた事で西横堀川と交差する位置に四ツ橋ができ、船の行き来が可能になったことで、四ツ橋の両岸に沢山の物資が集まりました。
大坂の陣の後、大阪は復興のために多くの材木が必要でした。長堀川ができた頃、立売堀川(現在のオリックス劇場の北側辺りを東西に流れる川)では、土佐藩の申請により材木市が始まりましたが、土佐藩が現在の土佐稲荷神社の辺りに蔵屋敷をかまえたため、西長堀川でも材木市が始まりました。西長堀川の材木市場は木津川を通り、土佐(高知)をはじめ阿波(徳島)や日向(宮崎)など全国の材木が集まり年中材木市場(材木浜)が開かれていました。
土佐藩が中心の材木市場は西長堀川の両岸に木材問屋が並び、早朝からせりが始まると昼頃まで魚市場のように早口で激しいやりとりが行なわれました。
「浪華百景」より長堀材木市
長堀と土佐の縁は深く、現在の鰹座橋と玉造橋交差点の間の西長堀川両岸一帯を土佐藩の大坂蔵屋敷が占めていたことで、土佐の輸送船による材木や海産物の陸揚げにより、西長堀川にできた市は「浜」として賑わい、材木浜として繁栄の道を歩みました。現在の白髪橋交差点の「白髪橋」の名前の由来は複数説ありますが、材木の最大産地であった土佐の白髪山の桧を使用して橋を架けたことによりつけられたと言われています。また、鰹座橋交差点の「鰹座橋」は土佐の鰹を扱う問屋が集まったことから命名されたと言われています。
戦時統制で市場が閉鎖されるまで、時代の変化とともに縮小されながらも300年以上の繁栄を極め、戦後も20年ほど材木商が軒を連ねるも大阪南港に市場機能が移され、昭和48年には水質汚染により舟運利用が減少したことで西長堀川は埋め立てとなり、完全に姿を消しました。その数年後、長堀通りの中央分離帯が公園(長堀グリーンプラザ)となりました。
「摂津名所図会」より
摂津名所図会(江戸時代の観光案内書)には「関西土佐及び日向より諸材をここに積上(つみのぼ)せて朝の市に数千金をあきなう也」と記されています。
参考文献/「堀江今昔物語」「大阪名所むかし案内」「西区の史跡」「大阪名所図会を読む」「なにわ大阪 今と昔」「浪華百景」「摂津名所図会」