ジュース屋さんは朝が早い
きったり、むいたり、しぼったり
地下鉄西長堀駅から徒歩数分、あみだ池筋沿いにある大阪名所のひとつ「和光寺」。和光寺は、長野県の善光寺第113世のお上人(高徳僧侶の敬称)である智善上人(ちぜんしょうにん)が「蓮池山智善院和光寺」として開き、江戸時代(1698年頃)の堀江新地開発の際に永代寺地と定められた尼寺です。和光寺の境内には、お寺が建つ前から「阿弥陀池」とゆう池があり、和光寺が建てられる以前の古地図にも目印として阿弥陀池が記されています。和光寺の周辺には、「あみだ池筋」や「阿弥陀池公園」など、池の名前が残っています。この池が「阿弥陀池」と言われるには、古い言い伝えがあります。
和光寺 入口
その昔、飛鳥時代(552年頃)インドに起こった仏教が百済(くだら)国を経て日本へと伝えられました。この仏教の受け入れをめぐり、この頃の有力な豪族の蘇我氏と物部氏は対立していました。反仏派の物部氏はこの頃に大流行した疫病の原因を異国の神を受け入れたため国神の怒りにふれたのだと考え、蘇我氏がまつっていた金剛の阿弥陀如来像を持ち去り「難波の堀江」に捨てました。そして「本田善光」が信州へ帰る途中、池から聞こえる声を不思議に思い、池の中より拾い上げたのがその阿弥陀如来像でした。本田善光はそのまま地元長野へ持ち帰り、ご本尊として善光寺を開いたと言い伝えられています。
上:和光寺 本堂 下:年代別古地図(左:和光寺・右:阿弥陀池)
江戸時代の和光寺は、本堂の他に観音堂や愛染堂・閻魔堂など多くの御堂を有する1800坪もある大寺でした。阿弥陀池は蓮の池で亀が住み、銀杏の木が茂り小橋が架かって大阪名所になりました。境内及び周辺には浄瑠璃の席・あやつり芝居・曲芸の見世物や物売りの店が並び、四季を通じて参詣者が絶えません。新町遊郭のお客が遊女を連れて阿弥陀池へ散策するのが流行ったことで茶屋が次々と建てられ、北堀江の辺りにも遊郭ができました。明治に入り堀江遊郭が正式に許可された頃、堀江小学校が和光寺の境内に建てられました。その後、堀江の芸妓たちに教育が施されるようになり、堀江遊郭は品位と芸を確立したそうです。 江戸幕府は堀江の発展策に見事成功し、寺院周辺に形成された町として発展してゆきました。 阿弥陀池のお話は伝承でしかありませんが、江戸時代から今も多くの人々に「あみだ池」と親しみを込めて呼ばれています。
「摂津名所図会」より
参考文献/「摂津名所図会」「大阪名所むかし案内」「西区の史跡」「大阪名所図会を読む」