大阪の薬の町、道修町(どしょうまち)
医薬品産業の発祥
船場の一角にある道修町。淀屋橋からほど近くオフィス街のひとつとして知られていますが、街並みをよく見てみると個人経営の漢方薬のお店から有名製薬会社まで、薬関連の建物がずらりと並ぶ。ここ道修町は古くから薬種卸問屋が多く、「くすりの町」として栄えてきました。時の移り変わりと共に問屋がメーカーへと発展し、現在でも多くの製薬会社や薬品会社がオフィスを構えています。なぜこの町は「くすりのまち」なのか。歴史をさかのぼること太閤秀吉の時代、道修町を含む船場は大阪城の三の丸を築城の際に城下町として開発されました。城下町を治めるための商業政策のひとつとして薬種業者が集められ、江戸時代初期に堺の商人、小西吉右衛門が道修町で薬種屋を開業したことに始まります。(諸説あり)
上:漢方薬屋のショーケースに並んでいるのは江戸時代から目に良いと利用されている八ツ目鰻キモの油。下:道修町地図。歴史が展示されている製薬会社も多い。
江戸時代の日本は漢方を主流とした医学で、日本の和薬や中国や東南アジアの唐薬(とうやく)が用いられていましたが、幕末にはオランダ医学を模範とするようになり唐薬以外の輸入薬を取扱う専門商も立ち並ぶようになりました。和薬と唐薬は、それぞれ道修町にある幕府公認の組織にいったん集められ品質管理されてから全国へと流通される体制が整えられました。それにより薬の流通の中心地となり、道修町は問屋街発展の基礎を固めました。
明治時代に入り、主流となってきた化学薬品を使用するドイツやイギリスの医学に対応するための学校を薬学者や薬種問屋が協力して設立しました。薬種問屋たちは洋薬の輸入から製薬に切り替え、洋薬の国産化そして製薬メーカーへと発展していき、当時の学校は現在の大阪大学薬学部や大阪薬科大学へと発展しました。
塩野義製薬ビルの植え込みにある「大阪薬科大学発祥の地」の石碑。
道修町の通りを堺筋へ進むとビルの合間に注連柱が現れます。ここは日本の薬の神と中国の医薬の神を祀る健康や医薬の神社「少彦名神社」(すくなひこなじんじゃ)。入り口は狭く参道の奥に鳥居があるため、うっかり通り過ぎそうになります。当時、医者や薬を扱う商店は中国の医薬の祖とされる神農氏の像や掛け軸を床の間に祀っていましたが、薬の真偽や品質の鑑別は非常に難しいことから神農氏と京都五條天神の少彦名命を祀り、日々お祈りしたことが少彦名神社の始まりです。また幕末の大阪ではコレラが流行し、それに効いたのが虎の頭蓋骨からできた薬でした。この薬と共に、「張子の虎」を病除け守りとして授与したそう。大阪で端午の節句に張子の虎を飾るのは、その習慣からかもしれません。少彦名神社は現在も「神農さん」と親しまれ、病気平癒を願う絵馬が多く奉納されています。
少彦名神社入口。境内には「くすりの道修町資料館」が併設されている。
上:境内には神社に護られてきた薬がずらり。下:武田道修町ビルの
「杏雨書屋」では、薬学にまつわる道具類を一般公開している。
取材・文・写真/ハイカラ不動産、参考文献/くすりの道修町資料館・少彦名神社(ご由緒)・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典