大阪の薬の町、道修町(どしょうまち)
医薬品産業の発祥
水の都大阪を代表する橋の一つである「淀屋橋」。元は米市場で働く人々の往来のために店先に自費で架けた豪商「淀屋个庵(よどやこあん)」の名前に依るものです。それは浪速八百八橋と言われる町橋の先駆けでもありました。淀屋の人々は秀吉が在城した伏見城造営に始まり、淀川の堤防の改修工事、中之島など未開拓地の開発や大阪三大市場(天満青物市場・雑魚場の魚市場・堂島米市場)を開くなど大きく貢献した大阪の代表的な豪商で、「天下の台所」と言われる経済都市へと発展させました。現在、淀屋橋の南詰辺りに淀屋の屋敷跡の碑があります。当時、淀屋の屋敷は敷地2万坪に奉公人(使用人)170人の邸宅と48の蔵に米蔵は730戸の大豪邸であり、夏座敷とゆう部屋の天井をガラス張りの水槽にして金魚を泳がせる設備は後世の富豪も真似たそうです。建設業の技術が高い淀屋だから世界初のガラス天井がつくれたのかもしれません。
淀屋の碑
淀屋一族の中でも活躍したのは1代目常安と2代目个庵でした。大阪が商都として発展したきっかけは、江戸時代初期に常安が京都から大阪へ来て材木商を営んだことに始まります。豊臣秀吉の時代では伏見城造営と淀川堤防の大改修を引受け、大阪の陣では徳川方の本陣の構築や物資の調達などに協力したことなどで時の将軍たちからの信頼も厚く、特権商人(※幕府や諸藩に出入りする用達商人)となりました。常安は中之島の開発を出願し、そこは後に天下の台所の中核となりました。个庵は青物市場の再開と雑魚場魚市・米市場を設立。地方の物産を大阪に集めて販売するための運輸・貯蔵・売却のシステムを確立し、支払いに困る諸藩には貸金をする事で流通が都市型に改善され、大阪が日本一の経済都市となる基盤を作りました。
上:淀屋橋周辺地図(江戸時代の淀屋屋敷敷地予想) 下:淀屋橋周辺古地図
大名たちの収入源となる年貢米の換金を米市の独占権を得た淀屋が、諸藩より販売を請負い米市を開きました。次第に各藩は大阪に蔵屋敷を建て、蔵屋敷の増加とともに米の取扱量も膨大になり、淀屋は日本一の豪商になりました。また、淀屋から借金をしない藩はなく、その額は現在の100兆円以上にのぼると言われています。ところが3、4代目は放漫経営が続き、幼くして当主となった5代目の贅沢な暮らしがとがめられ幕府より財産没収・追放となり、大名たちの借金も帳消しになりました。現在、淀屋橋の辺りには日本銀行大阪支店に三井住友銀行大阪本店営業部などの金融機関や大阪取引所(旧大阪証券取引所)、大阪市役所などが集まり、今も大阪経済の中枢を担う都市となっています。
米を蔵屋敷への水揚げ(※摂津名所図会より)
参考文献/「淀屋の歴史と偉業」「大阪の人と史跡」