おもしろい人、ものが集まって
コラボレーションする。
それがアートの新しいカタチ。
東日本大震災を機に価値観が変わった。
僕は新世界生まれ、新世界育ち。小学生の頃に現在の通天閣(2代目)が完成し、毎日目にしながら育ってきました。だから、子供のころは僕が通天閣の社長になるなんて思ってもいませんでした(笑)。そんな中でも、よく覚えているのは「日立」の看板。看板に「日立モートル」と書かれていて、父親に「モートルって何?」と質問したら、「それはモーターという意味や。日立のモーターは優秀で、電気をつくったり、電車を動かしたり優秀やねんで」と教えてくれました。どうやら父は、僕がおもちゃのモーターをイメージしていると察していたようです(笑)。大人になって東日本と西日本では電圧が違い、西日本はアメリカ式でモーターというけど、東日本はドイツ式でモートルと呼ぶことを知りました。親子のたわいない会話でしたが、今でもそのときの情景が目に浮かぶんです。
上:貴重な初代通天閣の資料「大阪新名所新世界写真帖」。
下:最頂上部の展望台は屋外から大阪市街を一望。
昭和50年くらいのことでしょうか。オイルショックや円高不況、光化学スモッグなどの影響で、入場者が20万人を切るまでに落ち込みました。それを救ったのは私の父と地元の人たち。身銭を切ってお金を出し合い、また文化人の方たちの手助けもあって通天閣のメディア露出も増え、20万、50万人と入場者が戻る頃に私は社長に就任しました。そのときの第一声は「通天閣は高さを売る時代じゃない。もっと違ったエンターテイメント性の高い塔にし、大阪のおもしろさ、文化を発信しないと残れない」でした。その後は、新しいアイデアを建物内に取り入れる日々。例えば、100周年記念事業としてエレベーターをタイムカプセルに例え、3Fは新世界に関するあれこれを展示する記念館、4Fは昭和時代の風景を再現した懐かしの世界、5Fには大阪らしく金色のビリケンを設置しました。おかげさまで現在は、年間入場者数100万人越えのうれしい状況が続いています。
初代通天閣の大天井画を奇跡的に残っていた資料から復刻。
実は僕が社長に就任したとき、文化人の先生から「利益も大事だけど、お金儲けばかりに走ったらダメな会社。ほかの役割があるはずだから、視野を広げて運営しなさい」というアドバイスをいただいたんです。それが、通天閣を大阪の文化発信基地にしようと決意したきっかけでした。次に通天閣に求められるのは、建物を運営するのではなく、新世界という町の中心として観光客を招き入れること。もっと大きく言うと、京都・奈良という歴史、神戸というモダン、和歌山のような海…というように、魅力のある関西に来てもらって、そのうちの何%かが大阪、さらにそのうちの何%かが新世界に来てくれたらすばらしいことだと思います。私にとって伝統は、守るものではなく変革を遂げながら受け継ぐもの。だから、町もこの会社も変わり続けながら、大阪の価値、新しい可能性を探っていきます。
昔も今も通天閣は街や人と共に歩んでいます。
ジオラマ展示では、約100年前の新世界を再現。
取材・文/櫻井 千佳、写真/山下 拓也