ジュース屋さんは朝が早い
きったり、むいたり、しぼったり
江戸時代、今ではおしゃれな街として人気の堀江ですが、大阪の中では最も開発が遅れていました。堀江は川に囲まれており町ができたのは川沿いだけで中央の部分は畑や空地でした。そこへ、現在の北堀江と南堀江を分ける境目(堀江公園)の辺りに堀江川を作り堀江新地が開拓され、現在も堀江に残る和光寺が建てられました。堀江新地に対する幕府の優遇措置により商いを起こしやすくなり、長堀川(現在の長堀通)の河岸は「材木浜」と呼ばれるようになった。その歴史が、今も面影を残す家具屋街へときっと繋がっていったのでしょう。
※おおよその位置になります。
娯楽の少ない江戸時代、あみだ池付近の散策が流行しました。人が集まる和光寺を拠点に、周りには相撲場や人形の芝居小屋が並んでいきました。「大坂相撲」発祥の地でもある堀江、現在の南堀江公園付近で堀江開発のために興行相撲を始め、江戸相撲をしのぐほど大変盛況でした。そこで相撲だけでなく、文楽の興行や茶屋の営業も幕府が許可したことにより、現在の北堀江1〜3丁目辺りに堀江遊郭ができました。
堀江遊郭は現在の堀江小学校の正門付近が中心地となり、茶屋はそこから1丁目の辺りまで軒を並べるほどに発展していくことになります。
堀江公園内 堀江川跡碑
明治に入り正式に遊郭としての許可が下ってからは大坂で一番の品位と芸を確立していき、道頓堀の芝居街や新町遊郭に匹敵するほどの賑わいを見せ、様々な文化人や学者を輩出したと言われています。江戸時代から、新町・堀江・北新地・南地(現在のミナミ)と4つの大きな花街があり、中でも新町遊郭は大阪最古の花街で、江戸の吉原・京都の嶋原と並ぶ3大遊郭の一つと言われています。その新町遊郭の中では下品にならず上品すぎない言葉が好まれ、「あんた」とゆう呼び方が流行り、「お前さん」と「あなた」の中間のニュアンスであることから一般にもひろまったそうです。
参考文献/「大坂の史跡を訪ねて」「堀江今昔物語」「大阪名所むかし案内」「大阪名所図会を読む」