ジュース屋さんは朝が早い
きったり、むいたり、しぼったり
大阪には千数百年に及ぶ都市づくりの歴史があり、安土桃山時代豊臣秀吉の大阪城築城に伴う町づくりでは、道路の整備と同時に町家から排出される下水排除のために、道路と下水道を備えた町づくりを行ないました。現在の大阪の基盤となる町が船場地区(現在の中央区)に形づくられ、この建設アイデアは画期的で高く評価されています。
江戸時代に入ってからも拡張・整備され、大阪市政が始まった明治22年には下水溝の総延長は約350kmに及び、現在は約20kmが西区・中央区で活躍しています。
町割りの状況(太閤下水見学施設資料)
豊臣秀吉が大阪の町づくりをする際の基本は、大阪城に向かう東西方向の道路を軸に碁盤の目のような形に整備をしていきました。現在も船場ではその形が残り、真四角の町づくりになっています。この町づくりで建設された下水溝は、道路・下水・道路・下水と交互に配置され、道路に面して間口を持つ建物、その裏側に下水となり、建物と建物の背中を割って下水が作られていた事から「背割下水(せわりげすい)」と呼ばれ、また、太閤秀吉にちなんで「太閤下水(たいこうげすい)」とも呼ばれています。
南大江小学校西側 見学用覗き窓
太閤(背割)下水の構造は「素堀り溝」から始まり、「木組み溝」、「石積み溝」へと変化していき、明治時代にコレラが大流行したことから下水溝の底にコンクリートを打ち、外に出ていた下水溝は地下へと変わっていきました。
今も中央区農人橋に現存する太閤(背割)下水は古地図にも描かれており、使用されている石組みは江戸時代の石と言われています。昔は東横堀川へと排水されていた下水も、今は西成区の津守下水処理場で処理され、木津川へ放流されています。改良を重ねながらも現在も活躍しているものは全国的に見てもあまり例がなく貴重なため、史跡として文化財指定され中央区の南大江小学校の西側に、見学施設と石組みを自由に見れる覗き窓が設置されています。
参考文献/「背割り下水の話」「太閤(背割)下水」