大阪の薬の町、道修町(どしょうまち)
医薬品産業の発祥
大阪にはいくつもの愛称があり、例えば「水の都」や「商人の都」「煙の都」そして「天下の台所」と「食い倒れの町」などがあります。どの呼び名も江戸時代から明治にかけての大阪につけられたもので、日本の商業や経済の中心地であったことがわかります。「天下の台所」と呼ばれた大阪は、豊臣秀吉が大阪の町割(町の区画)を行い、全国の商人を集めたことに始まります。各藩の蔵屋敷が大阪に建ち、年貢米などを江戸へ輸送し始めたことをきっかけに発展してゆき、日本全国を網羅する水上輸送網を確立しました。水上交通が発展した江戸時代の大阪は海の玄関口として日本全国や海外より様々な物資が大阪に集まり、そこから全国へ再分配される商業と流通の中心地となり、「天下の台所」と呼ばれるほど豊かな町へと発展しました。
昔の台所
山海の食材に恵まれいた大阪は、食を楽しむ文化が発達し、大坂三大市場と言われる「堂島米市場」「雑魚場の魚市」「天満青物市場」などの市場が「天下の台所」を支え、会席料理の技法も江戸時代の大阪で研究され発達したと言われています。
「京の着倒れ・大坂の食い倒れ・江戸の呑み倒れ」とゆう三都を比較する言葉があります。「食い倒れ」とは「食事にぜいたくをしすぎて財産をなくしてしまう」とゆう意味ですが、大阪は食への執着が強いわけではなく、「始末」とゆう言葉があるように食材を無駄なく上手に使い、いつも贅沢にごちそうを食べていたわけではないそうです。「大坂の食い倒れ」は豊富な食材やお酒が全国から集まり、誰でも自分の収入や地位に合ったものを満喫できたことや、天下の台所として商業の中心であった経済力によって発展していった事を表す言葉なのかもしれません。
くいだおれ太郎
食い倒れといえば「大阪名物くいだおれ」の看板息子「くいだおれ太郎」がいます。「大阪名物くいだおれ」が創業した時の道頓堀は、戦後間もなく角座や中座などの芝居小屋が復興しだした頃で、焼け野原も多くとても商売になると思える土地ではありませんでした。ですが、創業者の山田会長は日本一賑やかな繁華街になると考え二階建ての食堂を建てました。ある晩、屋号に悩んだ山田会長の夢枕に亡き父が現れ、「昔から言うやないか、大阪は”食い倒れ”の街やて」とささやいたそうです。そこから「大阪名物くいだおれ」に屋号が決まり、大きな中庭のあるビアガーデンが開店しました。その後10年もすると8階建ての洋食から割烹までが揃うビルとなり、くいだおれ太郎も知名度を上げ、大阪を代表する観光名物となっていきました。2008年に閉店となり、中座跡地の「中座くいだおれビル」にくいだおれ太郎は移設され、現在も大阪名物として道頓堀で活躍しています。
道頓堀
参考文献/「天下の台所・大坂」「大阪古地図むかし案内」「大阪城とまち物語」「くいだおれ太郎のつぶやき。」「くいだおれ波乱万丈記」