大阪の薬の町、道修町(どしょうまち)
医薬品産業の発祥
江戸時代の大阪は「天下の台所」と呼ばれ、「堂島米市場」はその時代の大阪を支えた大坂三大市場の一つです。「堂島米市場」は市場としての賑わいだけでなく、日本の経済の中心に位置する役割を担っていた。大阪にお米のイメージがなく不思議ですが、「堂島米市場」は大阪繁栄のシンボルでした。米市場は当初、蔵屋敷が連なる土佐堀川沿岸の北浜の路上で「淀屋个庵(よどや こあん)」によって開かれた。淀屋个庵は全国各地の諸大名が送ってくるお米の売りさばきを請負い、自らの店先で米市を始め「淀屋の米市」と呼ばれ、米商人たちが周辺に集まってきました。その後、交通妨害になることや対岸の堂島新地の開発に伴い元禄10年(1697年)に米市場は堂島(堂島浜1丁目辺り)に移転し、宝永二年(1705)年には淀屋が幕府より闕所(けっしょ※家財没収)となるも、堂島は米市場の中心地となった。
JR北新地駅のホームにある稲穂
江戸時代初期、大名たちは豪商に輸送や販売を請け負わせるも、経済の中心大阪に蔵屋敷を設け、蔵元の商人を仲介に年貢米を販売するようになった。各藩が米を売り、そのお金で物を買う。それが市場の発展となり、貨幣経済の発達となった。現在の大阪全日空ホテルの南側に「堂島米市場跡記念碑」がある。この記念碑には「先物取引きの発祥の地」と記され、世界初、本格的な先物取引市場であるシカゴ商品取引所が参考にしたのが日本の堂島米市場だと言われています。はじめは現物での取引きでしたが、米価が下落した年に引上げ策として幕府が米切手(蔵屋敷が発行する米の証券)の売買を許可し、商人たちの出願により堂島米会所(どうじまこめかいしょ)が設立し、商品市場から先物取引の場となりました。
上:蔵屋敷があった場所 下:歴史の散歩道(北新地の歩道)
米市場は、冬・春・夏と3期にわけて取引きが行われ、シーズン中は毎日のように飛脚が日本各地へその日の相場を知らせに走りました。米市場は江戸、京、大津(滋賀)などにもあったが、堂島の相場が日本の標準相場とされ、株式市場のような経済的役割をしていました。取引きは朝から夕方まで続き、終了時間前には火縄に火をつけて軒先に吊るし、燃え尽きた時点で取引きは終了。この時の値段が次の始値となる。しかし、なおも売買を続ける者もいるため、水をまいて追い散らした。いつの時代も取引の場は熱気で包まれるようです。現在はオフィス街と変わってしまいましたが、堂島近くの北新地には現在も名残があり、北新地駅のホームの壁には稲穂のマークがあり、街の歩道には歴史の散歩道として米俵のマークがあります。
浪花名所図会より「堂しま米あきない」
参考文献/「なにわ大阪 今と昔」「浪花名所図会」「大阪名所むかし案内」